押し付けがましい人々

けれど酒好きの人は、たびたび私に対してこう言う。


「こんな美味しいものが呑めないなんて可哀想」
「酒の旨さがわからないなんて気の毒」
「人生の半分は損してる」
「酒も呑めないんじゃ、社会人としてどうか」


小梨妻が、とことん突き詰めるブログ - 酒好きとの共通点

同感。グラスが空くとビールを継ぎ足す人とかには、おれはビールは嫌いだ、と空気も読まずに言い放つ。

これって産め産めパターンと似ているでしょう。


「こんなに可愛いのに、子供がいないのは可哀想」
「子供を可愛いと感じられない、欲しいと感じられないなんて気の毒」
「人生の半分は損してる」
「子供のいないやつは、社会人としてどうか」


その後の文章も、「酒」を「子供」に置き換えてみれば、すんなり当てはまる。


小梨妻が、とことん突き詰めるブログ - 酒好きとの共通点

自分の常識を世の中の常識として押し付けようとする人は少なからずいる。他人と自分では考え方が違うのだ、という事実に目を向けていない、あるいは気づいていない。自分と違う価値観を駆逐しようとする。おそらく無意識に。

「常識」は環境で決まるのではないかと、最近考える。自分の中での常識、組織の中での常識。

常識とは、幸せ方向に導くためのノウハウだ。

そして、自分にとっての酒は、幸せ方向には向いていない。人によって幸せの尺度はかなり違う。おれがこうすれば幸せだから、あいつも絶対そのはずだ!と短絡的に考えることはあまりにも自己中心的だ。

人を殺してはいけない、物を盗んではいけない、という常識は社会通念的にほとんどの人に当てはまるだろうが、実はそれらも、刑罰という不幸を受け入れたくないがために、仕方なく従っているだけなのかもしれない。

なーんてことを考えてしまった昼休みであった。