ETV特集「ケータイ小説@2007.jp」を見た

ケータイ小説の作者とファンへのインタビューで構成されたドキュメンタリー。

インタビュアーの藤原信也氏が言っていた。海釣りにたとえて言うなら、棚というものがある。ここの棚にはアジ、ここの棚にはイワシなど、棚ごとに種類のちがう魚が生きている。ケータイ小説は、若者という違う棚から生まれてきたものだと。確かにそうかもしれない。

10万人いると言われているケータイ小説家。本が出版でき、ベストセラーになるほど売れる作品が書けるのは、その一握りの人たちだ。表現し、多くの共感を得られるということに関して言えば、彼らはきっと、特別な才能の持ち主なのだと思う。

インタビューに登場したケータイ小説の作者が書く物語は、実体験をもとにしたものが多い。それを書く、吐き出すことによって、自分を癒す。作者の多くが10代後半〜20代前半ということは、その棚に向けて書かれたということだ。

「死」

彼らの書いた物語は何かしら「死」が関連していた。そして、それが彼らの棚で共感を得る。何故だろう。若さと死は、ほぼ対極にあるものだからだろうか。若さ故に、死の描写はショッキングな疑似体験として彼らの心を貫くのか。

おれは安直に人が死ぬ物語がキライだ。ケータイ小説に限らず、恋人が病気で死にそうで助けてください! でもやっぱり死んじゃった! でも私は負けない、寂しくない、強く生きる! みたいなやつ。

技法

話の成り行きとして、人を殺すというのは、物語としては最終手段だと思うのだ。それは物語を紡ぐ「技法」だ。最終手段を使う前に、他の「技法」もあるだろう。なぜそれを試さずにあっさりと最終手段を……。あらすじや予告を見た瞬間、フィルターにかけ、拒否してしまうに違いない。要するにストレートに受け入れられないのだ。

だからといって、改心してケータイ小説を読もうとは思わない。何故ならば、おれはいつまでも20代前半の若者ではないからだ。マンガでいうなら、ボンボン、コロコロコミックからジャンプ、サンデー、マガジン、そしてヤングマガジンビッグコミックスピリッツなどと、世代によって興味が変わるように、今、ケータイ小説に夢中な世代もいつまでもそればかりを読み続けるとは思えない。

洗練と稚拙

ファンの女子高生が言っていた。一般の小説はわかりにくい。難しい。上から目線でものを言っている。その点、ケータイ小説は、私たちと同じ目線で伝わってくる。そして、藤原氏も言っていた。言葉は稚拙だが、ストレートな思いが綴られている。

そのストレートさが、共感を生むのだろう。そのことだけは認めたい。

おれは稚拙さよりも、洗練さを取る。だが、ピカソの絵のように洗練された稚拙さがあるというもの事実だ。ケータイ小説が洗練された稚拙さであるかどうかはわからない。

――アントニィ・バージェスの「時計じかけのオレンジ」は洗練された稚拙さがある、おれの読んだ中での唯一の小説だ。作為に満ちているのは言うまでもない。というよりも、年をとると作為に満ちたものを好むようになるものだ。たまには、純粋なものを味わいたくなる。が、ほとんどの場合、それはノスタルジーによるものだ。